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人生100年とは

令和版徒然草:「人生百年の心得 ― 名誉あるマイポイント」

 

 「人生百年」とは、聞こえはよいが、浮かれて言うものでもない。

 かつて七十を越えれば村の宝、長寿の象徴であった。

だがいまや、国民の三人に一人が年寄りとあっては、ありがたみも薄れる。

珍しい花も、咲きすぎれば雑草である。

 わが身七十七にして、電車で席を譲られることも増えた。

ありがたいような、申し訳ないような。

心のどこかで「まだ若い」とつぶやきながら、都合よく年寄りを演じている。

年を取るとは、つくづく都合のよい生き物である。

 若者が結婚を避け、子をもうけぬという。

その一因が、我々年寄りの増加による社会コストの重さにあるという。

さらに、自然の摂理として人口の増大を防ぐために、長寿化が少子化を促しているのかもしれぬ。

 もしそうなら、「人生百年」などと自慢している場合ではない。

少子化を招いた張本人として、静かに反省し、せめて一つでも世のためになる行動をして、この世を去る覚悟を持ちたい。

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 要するに――年寄りは、現役の声を聴け、ということである。

 彼らはこの人口の歪みを背負い、未来を切り開こうとしている。

 宇宙も星も、生きとし生けるものも、みな「生・壮・老・死」の流れの中にある。

 その循環の要こそが、壮年の力である。創造し、実行する。その活力が未来を紡ぐのだ。

 年寄りがその道を塞げば、この国は静かに沈んでいくだろう。

 我々は、その背を押し、道を譲ることで、この国の再生に加わるのだ。

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 では、我らは何をすべきか。

 幸い、前期高齢者くらいまではまだ元気だ。壮世代と老世代の間に熟世代を置こう。

 そして幸いにも健康なら、働こう。

 医療・介護・建設・物流といった、人手が絶えることのない「エッセンシャル分野」で。

 あるいは教育・交通・行政などの「準エッセンシャル」でもよい。

 主役でなくとも、補助役として支えることができる。

 

 そのために国は支援策を整えるべきだ。

 まずは公共のセーフティーネット――職業再訓練、賃金保障、就業マッチングの充実である。

 そして、たとえば――マイナンバーポイントによる「熟年ボーナス」制度を設けたい。

 五十五歳を過ぎて社会課題の現場に転じた者に、一定の割増ポイントを与える。

 年金開始に合わせて上乗せとなる。

 だが、これは単なる金銭だけではない。

 「社会に貢献した証」「世代を支えた勲章」としての名誉のポイントである。

 老いてなお働く者の誇りを、カード一枚に刻み、国家がそれを讃える。

 貨幣の裏に、人の尊厳を映す仕組みである。

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 こうして五十五から七十五までの熟年が、七十五を越える老年を支える――「熟老介護」の時代が来る。

 若壮世代の負担が減り、社会に希望が戻る。

 やがて結婚も出産も、再び増えるだろう。

 そのとき壮年たちは、真に社会の中心として、新しい産業を興し、経済の再構築に挑むに違いない。

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 問題は、年寄りがその流れを素直に受け入れられるかどうかである。

 「まだ自分も主役だ」と張り合えば、時代は滞る。

 だが、潔く身を引き、次代に託すことができれば、それこそが最高の名誉ではないか。

 

 戦後の個人主義に浸りきった我々は、「世間」という言葉を忘れてしまった。

 むしろ「同調圧力」などと嘲る。

だが本来、「世間」とは「公共」の別名である。

我々の世代も社会全体を考え自分たちの世代の役割を自覚しなければならない。

 個の自由に、利他の心が添ってこそ、人の世は温まる。

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 年寄りよ、もう一度、自然の理を思い出そう。

 生まれ、盛り、熟し、老い、そして次に譲る――これが「生壮熟老死」の道理である。

 その流れに逆らわず、壮年を中心に据える。

 それが国の健やかさである。

 「人生百年」とは、長く生きることを誇る言葉ではない。

 生涯を通じて、どのように人生の質を高めるか――その智恵と優しさを問う言葉である。

 老いてなお働く者に、報酬とともに誉(ほまれ)を。

 それこそが、次の日本を支える、真のマイポイントである。